パキスタン 伝統と情熱のあいだ

道を歩いているだけでストーリーが生まれる国、パキスタン。街を歩いて気づくことは、長年の伝統に基づいた生活、そしてその中を生き抜く人々の情熱だ。パキスタンの街を風景を探ってみたい。



旅行時期: 2009 年11月前半
為替: 1ルピー = 1.08円
作成日: 2009.03.05

目次


ラホール: スーフィーナイトを攻略

ラホールには、スーフィーナイトという旅行者にも人気のイベントがある。スーフィーとはイスラム神秘主義の求道者。毎週木曜の夜、著名なスーフィーを祀った廟で演奏会が行われる。そこでは、有名な演奏家とダンサーがトランス状態で激しいパフォーマンスを繰り広げ、盛り上がりは深夜まで続く。観客の多く、特に常連の現地人は、当然のようにハシシを回しながら楽しむらしい。

ラホールの木曜日

スーフィー関係の催しはたいてい木曜日に開かれる。たまたま木曜にラホールにいた私は、当然のようにスーフィーイベントに照準を定めた。まずは情報収集。ロンプラ(2008)によると、昼間12PM-4PMに、ダタ・ガンジ・パクシュ・ハジュベリ(Data Ganj Bakhsh Hajveri)でカッワーリー(qawwali、イスラム教の賛歌)の演奏が行われる。夜にはババ・シャ・ジャマール(Baba Shah Jamal)で9PMから深夜までスーフィーナイトが開かる。この手の宗教イベントの最新情報は、リーガル・インターネット・インの主人が持っているので、ぜひ彼にコンタクトするように、としつこく勧めている。本に十分な情報が載っていると判断した私は、そのままダタ・ガンジに向かった。

ダタ・ガンジは旧市街の東側にある巨大な廟。11世紀の著名なスーフィー伝道師である、ダタ・カンジ・バクシュが祀られている。セキュリティチェックを受け、奥のモスクのほうに歩いていく。2PMを過ぎても、音楽を演奏している人はどこにもいない。近くの人に聞くと、深夜12時から、人々が集まってカッワーリーを歌うらしい。別の人は、巡礼者が自発的に演奏するもので、決まった時間はないという。ここまで、ロンプラの情報と完全に食い違っている。昼のイベントは諦めて夜のスーフィナイトに期待することにした。

写真: ダタ・ガンジ・パクシュ・ハジュベリの大理石の中庭

スーフィーナイトへ突撃

8時半過ぎ、街の南にあるババシャジャマールに到着。階段を登った先にスーフィー廟がある。手前の道路では、スーフィナイトを待っていると思われる現地人がくつろいでいた。彼らは常連で、道端に座るスペースを勝手に作り、ハシシを吸いながらまったり過ごしている。ここで、チャイをご馳走になり、一緒に待っていると、馬を連れた音楽隊のような人達がやってきた。みんなと記念撮影をしながら進んでいく。これか、と思ったが、何事もなかったように通りを通過していった。一体何者だったのだろう。

写真: 左:道端でまったり過ごす地元の常連組。右: 正体不明の音楽隊。

9時を過ぎても何も起きそうにない。周りの人に聞いてみると、いつも11時くらいにスタートだという。今日は40km離れたフェスラバードで先に演奏しており、少し遅れる可能性があるらしい。にここには廟が2つあり、向かって左がババシャジャマール。スーフィーナイトは右側の廟の手前の広場で行われる。広場を覗くと観客に配る飲み物を準備している人がいるが、始まる気配は全くない。皆、パプー(Papu Saeen、著名なドラム奏者)の到着を気長に待っている。廟の警備員と会話しながら、辛抱強く待ってみたが、12時半になっても始まる雰囲気はなし。ここで、ダンサーの一人が到着。パプーは一時間ほど遅れるらしい。すでに4時間待っている。入り待ちとはつらい作業だ。

ハズレの日

ババシャジャマールの入り口には、訪問者や貧しい人に無料で食事を給付する小部屋がある。この中で仮眠を取りながらパプーの到着を待つ。2時半ごろ音楽が鳴り出した。外に出てみると、広場ではなく、道路の隅で、サックスと太鼓を持った若者ががセッションをしていた。観客は広場前の石段に座った20人程。それからさらに30分程待ったが、パプーはやってこない。道路端のハシシ組に聞くと、「今日は来ないんじゃないの」と全く気に留めていない。彼らは毎週来てるからいいが、私は旅行者なので一発勝負なのが厳しい。

写真: 左: セッションを始めた若者2人組。右: スーフィーナイトが行われるはずだった広場。ロンプラの情報だと上の廟のスペースで行われるようなことが書かれているが、現地の人はこの広場だという。

結局、3:15AM諦めて駅前の宿に戻った。バックパッカーの定宿であるリーガルに泊まって情報を集めるべきだったのだろうか。すこし後悔したものの、あの薄暗いゲストハウスにはどうも泊まる気がしない。全く攻略できなかったスーフィーナイト。この土着のイベントは恐らく半永久的に続くだろう。いつの日かリベンジすることを期待して、ラホールを去ることにした。

補足

  • ババ・シャ・ジャマールのスーフィナイトは歩き方には載っていない。が、リーガルインターネットインに泊まる日本人は多いので、行ったことのある人は少なくない。
  • [Wiki] スーフィー
  • パプー(バプー) = 父親。ガンジーもパプーと呼ばれた。

ギルギット: もうひとつの独立記念日

ノーザンエリアの首都であるギルギット。フンザなど他のNA地域と比べれて都会で、やや殺伐とした雰囲気がある。イスラム宗派同士の抗争などで、外出禁止になることもしばしば。この土地の好戦的な風土は今に始まったものではない気がする。

過去の栄光

パンジャビ州の分割が印パの同意のもと行われた一方、ジャンムー・カシミール州(J&K)の分割は領土の奪い合いの結果だ。1947年、当時のJ&Kのマハラジャは、インドへの帰属を決めていた。しかし、ギルギット・スカウトの少佐を中心とする勢力が決起。11月1日、マハラジャを拘束して、パキスタンへの参加を要求した。この後、すぐに印パ戦争に発展し、今の暫定的な国境がある。フンザ、ゴジャール、ギルギット、バルチスタン、カシミールの一部はパキスタンに。カシミールの大部分、ジャンムー、ラダックはインドに属する。歴史が少し変わっていれば、フンザもインドの一部になっていたのかもしれない。そう考えると、彼らの行動は今でも価値がある。

ギルギットにはその反乱軍のリーダーや兵士に対する記念碑が2つある。ひとつは市の公園であるチナルバーグに、もうひとつは市中心部のNLIマーケット入口にある。毎年11月1日にはチナルバーグで"独立蜂起"の記念式典が行われる。内容は、警察の鼓笛隊とボーイスカウトの行進、テコンドークラブの型披露、当時の関係者のスピーチなど、と形式的であまり面白くない。用意された席は一応埋まっているものの、観客の数はそれほど多くない。ギルギットの独立記念日は既に過去のものになっているようだ。

現在の関心

多くの市民の興味は11月12日に開かれるノーザンエリア(現在、ギルギット-バルチスタン)評議会の選挙に向かっている。10月から、どの村でも選挙応援の車やバイクが走り回り、賑やかというよりうるさい。直接選挙活動しない人でも、家の屋根や車に支持政党の旗を掲げて、宣伝に一役買っている。日本と違い、どの政党が多数派を取るかで、暮らしや環境が大きく変わるのだろう。

ノーザンエリアの首都であるギルギットでは、特に選挙運動が激しい。そこら中にポスターが貼られ、夜中は暴走族さながらのオートバイ軍団が町を走り回る。現在の問題に一生懸命で、過去を懐かしんでいる暇はない。それで正しいのかもしれない。

写真: 上: 記念式典で行進するボーイスカウト。複数のスカウトが参加しており、優秀なスカウトには式典後、賞が貰えるようだった。下: 選挙ポスター。

補足

  • カシミール問題は基本的にはイスラムとヒンドゥの宗教問題。その中で忘れられがちなのが、その他の宗教、特にキリスト教だ。国内にはカトリック教徒が100万人ほどいるが、国民全体の1%に過ぎない。キリスト教への差別、迫害はきびしく、町に店を開いても客は皆無。店主がシークやイスラム教他宗派の場合、こういうイジメはない。こういう状況のため、彼らの海外志向は強い。

ワガボーダーを攻略

国境 now and then

アムリトサルから30km 、ラホールから30km。インド・パキスタンを結ぶ唯一の国境、ワガ・ボーダーは、そんな便利な場所にある。カシミールの領土問題ばかり取り上げられるが、印パ独立に際してのパンジャビ分割ほど悲惨な出来事もない。1947年、新たな国境ラインが決定された後、インド領にいた700万人のモスレムは、家や財産を捨ててパキスタン領へ、逆に700万人のヒンドゥーとシーク教信者がインド領へ移動した。その過程で多くの殺戮が起こり、数十万人の死者を出す大混乱が続いた。、印パ国境にはそんな血みどろの歴史がある。

印パの緊張は続いているものの、ワガ・ボーダー自体は平和そのもので、そんな暗い過去を全く感じさせない。旅行者にとっては、ワガ・ボーダー=国旗降納式である。国境ゲートの両側に、多くの観客を集め、夕刻、国境を閉じるセレモニーを執り行う。両サイドとも、自国の兵士に熱い声援を送るが、相手国の観客を敵視しているわけではない。これは印パ友好のしるしとして、1948年以降毎日行われているのだ。毎日やっているにもかかわらず、両国とも観客はちゃんと入っているのが不思議だ。

インド側のイミグレーションが閉まるのが午後4時。パキスタンとは時差があり、冬期ではインド時間に対して+30分、夏期では-30分になる。それから日没までの間に式が行われる。

セレモニー

私は、今回、デリーからやってきて、アムリトサルには滞在せずに、そのまま国境を越えることを考えていた。アムリトサルは以前、国境セレモニーも含め、観光しているので、特に一泊する理由もない。時間ぎりぎりにインドのイミグレを出て、パキスタン側に入ると、停電のため一切の入管業務がストップしていた。1時間ほど待たされた後、入国すると、セレモニーを見学するのに程よい時間になっていた。国境越えとセレモニーを同じ日にこなすことは、以外と簡単なのだ。

セレモニー開始前には、それぞれ応援団の男性が、観客を煽る。会場が暖まったところで、式が始まる。兵士が1人ずつ、足を高く上げながら格好よく行進し、門の前まで移動する。両国同時に国旗を降ろして終了。文字にするとつまらないが、会場は呆れるくらい盛り上がっている。

写真: 左: カラフルなスタンド女性席と兵士(パキスタン側)。右: 国境ゲートとインド人スタンド。

インド側 vs パキスタン側

今回、パキスタン側からセレモニーを見て、いくつか気づいたことがあった。

  • インド側が無料なのに対して、パキスタン側は有料。外国人は50ルピー払うが、ゲート手前のいい席に座ることができる。
  • インド側がインド人観光客で混雑しているのに対し、パキスタン側、とくにゲート手前の席はあまり混んでいない。インド側でも、外国人は優先的にゲート近くに座らせてもらえるが、競争が激しいため、早く到着しないと少し離れたスタンド席になってしまう。また、パキスタン側が、ちゃんとした椅子席なのに対し、インド側はただの石段だ。
  • インド側から見ると国境ゲートは、西側にある。季節によっては西日が強く、写真がとりにくい。また、インド側の観客席のほうが大きいため、パキスタン側から写真を撮ると、国境警備員とインド人で埋まったスタンドを同じフレームに収めることができる。
  • パキスタン側は、国境と最寄の売店が近いが、インド側は結構歩く。パキスタン側の売店のほうが気さくで、無料で荷物を預かってくれる。
  • パキスタン側からは、国境からバスが出ているが、インド側のバス停は離れている。
  • 観客を煽る役目の人は、インドの場合、ただの背の高い男性だが、パキスタン側の場合、正体不明の緑色の服を着たおじさんで味がある。

これらのことを考え合わせると、パキスタン側から見るほうが断然いいという結論になる。

もうひとつの国境越え

国境を越えるのは、人だけではない。インド側では、トラックが多数順番待ちしている。パキスタン側からも、デコトラが何台かインド側に進んでいった。しかし、インドでデコトラが走っているのを見たことがない。これらのトラックは、国境を越えると、相手側のトラックに荷物を載せかえ、戻ってしまうのだ。そのため、インド側には、ターバンを巻いたポーターが多数働いている。いつの日か、デコトラがインドを自由に走れるほど、両国間の関係が改善することを願い、国境を後にした。

写真: 左: パキスタンからインドに向かう荷物満載のデコトラ。売店から国境ゾーンに入るところで、電線に引っかかる。手で持ち上げて解決。右: 同じトラックがパキスタン側の観客スタンド手前で、兵士に止められる。その車高の高さを利用して、窓拭きの足場に使われる。

国境への交通

アムリトサルからの場合

    • バスでアタリ村まで行き、オートリキシャに乗り換え国境まで行く。帰りも同じ。
    • 黄金寺院の前あたりで、客寄せしている乗り合いVANで往復する。
    • オートリキシャを雇う。同じリキシャで戻る。

ラホールからの場合

    • ラホール・シティ駅前のバス・ターミナルで、4番バスに乗り国境まで行く。バスがジャルナモール止まりの場合は、そこで、乗り合いVANやオートリキシャ、チンチーに乗り換える。
    • オートリキシャで往復する。
    • TDCPのツアーに参加する。

などの方法がある。

国境越え+セレモニー

  • 実際には、そういう慌しいことをする人はあまりいない。アムリトサル、ラホール共に、見所があるため、たいていの旅行者は1,2泊し、その間に日帰りでセレモニーを見にいく。国境越えと組み合わせた場合、当然ながら、国境を越えた側でセレモニーを見ることになる。

国境を越えると

  • 牛はいなくなり、コーラのサイズが600mlから500ml二変わる。そして、私の好きなポテトチップ、Lay's のトマトタンゴ味がなくなる。
  • 両替は、インド側のSBIか、両側の売店にたむろしている両替屋で可能。両替屋のレートはそれほど悪くない。

肉食バンザイ

インドよりパキスタンのほうが肌が合う気がする。その理由は2つあるように感じる。一つは生活が夜型であること。大都市では24時間やっている店が結構ある。もうひとつは、肉料理が充実していること。インドがベジタリアン志向なのに対し、パキスタンは肉食中心である。ミートー・イーターの私にとってこれほど喜ばしいことはない。

肉パラダイス

パキスタンで一般的な肉料理が、チキン/マトン/ビーフを使ったカレーやカライ。さらに、ハンバーグのようなチャパル・カバブ。これらをチャパディと一緒に食べる。スナック系では、各種串焼きやチキンの揚げ物/スープなど。 意外に充実しているのがモツ系と骨系の料理。マトンの足+ゼラチンのスープ、モツ鉄板焼き、牛の骨スープなど。これらの変わり種料理は、どこにでもあるわけではなく、都市部の限られた専門店(屋台)で食べられる。中華文化圏から出るとこの手の料理はなかなか食べられないので、貴重である。

写真: 左:ヤギ/羊のパーツ売り。頭(120)、足(40)。右:モツ鉄板焼き。下:ハツ、左: 腸?、中: 肝臓・腎臓、上: 脳、後:マトンの尻尾。パーツを選んで鉄板上で刻んでバターと蒸し焼きにする。肉を細かく切るので、出来上がった時には、どの肉がどの部位なのかわからなくなる。 一品づつチョイスして合計180-250ルピーくらい。

肉好きのジレンマ

旧市街を歩いていると、道端に繋がれた羊をよく見る。通常、まわりに人はおらず、ただその辺に繋がれている。羊は飾り物をつけ、化粧をし、よく見ると大きな金玉を持っている。彼らはもちろんペットでも野良羊でもなく、生贄を待つ羊である。イスラムの社会では、定期的に生贄を捧げる習慣がある。といっても、羊は決して安い買い物ではないので、主にお金持ちの家が行い、肉は近所にお裾分けする。1人で寂しそうにしている羊、一緒に繋がれた羊とヒソヒソ話をしている羊。彼らはこれから自分の身に起こることに気づいているのだろうか。化粧をした羊はどこかかわいらしく、肉好きの自分は罪悪感を感じずにはいられない。ふーっ、と深いため息をつき、ブルーな気分でその場を通り過ぎた。

写真: 右: 道端の羊。左: 生贄用の羊を売りに来た行商人。

補足

牛の背骨? スープ。

 

チキンの丸焼き 300ルピー

 

マトンの足スープ。ゼラチン多し。

 

レバー?焼きの屋台

Copyright (C) 2009 Sekakoh. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system